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引っ越し

 何やら、豊と音子、それに幸恵と明子の同居生活が、なし崩し的に決まっていた。
 いや、なし崩し的とは言ったが、豊はこの状況を、本心では嫌がっていない。
 でも、表面上はそう表現したい、男心を分かってほしい。
 豊にとって最後の砦であった両親からは、何故か「頑張ってねw」と励まされてしまった。
 明子さんから何を言われたのか気になるところではあるが、知らない方がいい事もあると、豊の心のストッパーが、明子に聞く事を阻んだ。
 まあ実際のところは、金持ちの金の力と言えば、だいたい想像がつくだろう。
 音子の身元については、結局色々と話す事になってしまった。
 やはり保護者への許可はしっかりとらないと、大人の事情的に困る事になりかねないから。
 それで豊は音子の事を「未来から来た猫が人間になった者」と伝えたわけだが、意外とあっさり信じられてしまった。
 いやもちろん、本心なんてわからないが、明子も幸恵も、そんな事もあるよねって感じだった。
 全く、どういう事だろうかと、豊は考えた。
 もしかして不思議な事なんてものは、意外と知らないところで沢山あるのではないかと、豊は思ってしまった。
 後、豊は気になっていた、幸恵の記憶が曖昧になる原因について明子に尋ねた。
 聞いたところによると、恐怖や悲しみなど、感情が不安定になると記憶が無くなったり、テンションが逆転したりするらしい。
 豊は当然、山口のイジメが、何かしら幸恵に悪い影響を与えてしまった事を確信し、申し訳ない気持ちになった。
 それと幸恵の希薄な雰囲気は、音子に聞いたところ、まだ残っているという事だ。
 それは、1年後には、命を落としている可能性が高いという事。
 もしかしたら、このイジメが引き金だったのかもしれない。
 実際、イジメによって命を落とす人は大勢いるのだ。
 イジメは殺人と同じだと、今の豊には思えた。
 で、次の日の日曜日、引っ越し作業に豊は忙しかった。
 1年2カ月過ごしたこのボロアパートとも、いきなりのお別れだ。
「マジで、こんな展開で良いのだろうか。」
 豊の呟きはもっともだ。
 勉強する為に決めた一人暮らしとは、既にもう決別しているが、これでますます勉強できない環境になる気がする。
 最近なれた、フローリングの上での睡眠も、終わりとなると何処か寂しい。
 朝のランニングで見なれた景色も、おそらくもう二度と見る事はないのだろう。
 これからは、幸恵宅にあるトレーニングまっすぃーんで、ランニングする事になるのだろうか。
 豊は、名前も知らないアパートの管理人に別れを告げ、音子と共に明子の用意した車に乗った。
 車のシートは柔らかく、座り心地は最高だった。
 とまあ豊は、感傷に浸ると言うか、感慨にふけると言うか、微妙な心情を満喫していたわけだが、音子は相変わらず、全てに喜びを体いっぱいに表していた。
 ハッキリと言うと、豊はもうどうでもいいやと思った。
「豊、あの車ピンクなのさ!」
「そうだね。」
「豊、なんだか美味しそうな匂いがするのさ。」
「ラーメンだね。」
「豊、あの人後ろ向きに歩いてるのさ。」
「ふしぎだね。」
「豊、道路の真ん中でチューしてるのさ。」
「愛だね。ってなにー!!何処だ?!」
 自動車の中では、豊と音子の会話も弾んだ。
 事にしておこう。
 30分ほどのドライブは、すぐに終わりを迎えた。
 昨日来たマンションではあるが、改めてみると立派なものだ。
 この建物の12階から13階のスペース全てが、これから豊たちが生活する場所である。
 エレベーターの階は13階が無く、12階が二階建てになっているような造りだ。
 引っ越し荷物の運びいれも、既に始まっていた。
 と言っても、荷物の半分以上は、実家に送ってもらっている。
 冷蔵庫、洗濯機、電子レンジに調理器具、テレビにお楽しみグッズなど、ほとんどがそろっているので必要がない。
 もちろん、一部用意されていない物がある事は、賢明な読者には当然分かっていると思うので、あえて此処では言わない事にする。
 15分もしないうちに、引っ越し作業は終わった。
 リビングで待っていた豊と音子は、それぞれに与えられた部屋に案内される。
 豊の考えていたような豪華な部屋では無かったが、今まで過ごしてきた部屋とは比べ物にならないくらい、清潔感のある部屋だった。
 今まで使っていたパイプベッドは捨てたられ、新たに用意されたベッドはフカフカで、豊には、音子が飛び跳ねる姿を想像するに容易かった。
 と言うか、想像をそのまま、目に映る景色に張り付けたように、音子は既に飛び跳ねていた。
 豊は、そんな音子を、しばらく笑顔で眺めていた。
 音子の部屋には、ベッドやテレビ以外にも、色々と用意されていた。
 学校の制服はもちろん、デスクにパソコンまであった。
 豊は自室に戻ると、いくつかの荷物を適当に整理し、再びリビングに戻った。
 リビングのテーブルには、美味しそうな食事や飲み物が並んでいた。
「引っ越しパーティーなのさ!」
 ソファーに座る音子が、喜びいっぱいに豊に手を挙げた。
 豊は、そんなパーティーをする事なんて、全く想定していなかったので、照れくさくも嬉しいサプライズに高揚した。
 しかし、男子たる者、此処で女子供のようにはしゃぐ訳にはいかないと、冷静な面持ちで音子の横に座った。
 それでもやはり、顔はにやけているに違いなかった。
 左横には音子、左向かいには幸恵が座っていた。
 豊の正面は空いていて、ドアの所には明子が立っていた。
 豊は気になった。
 どうして明子は座らないのだろうか。
 それに、食事を前にして、一向にパーティーが始まる雰囲気は無かった。
 気になって音子を見ると、音子は美味しそうな食事を前に、必死に食べるのを我慢しているようにみえた。
 豊の疑問を感じ取ったのだろう、幸恵が豊に告げた。
「もうすぐ、お友達が来るのぉ。ちょっと待っててねぇ。」
 幸恵の言葉で、豊は状況を理解した。
 (それにしてもお友達?)
 お友達の一人や二人、それは同年代の女の子なのだからいてもおかしくはない。
 だけど、記憶が不安定な幸恵に、そんな相手がいる事が、豊は少し不自然に感じた。
 それでもまあ、明子の事は忘れたりしていないようだし、付き合いがあれば、それなりに覚えているのかなと判断した。
 間もなく、来客を告げるチャイムがなった。
 インターフォンの音も、流石に高級マンションだけあってお洒落だ。
「チリンチリン」という、喫茶店のドアの所についている、鈴の音のようだった。
 すぐに明子が、玄関へと迎えに行く。
 玄関の方から、挨拶が聞こえてきた。
「こんにちは~」
 お友達はどうやら女の子のようだ。
 豊は少し安心した。
 別に「やきもちやいちゃう~」なんて理由で安心したわけではない。
 ただ、知らない男の人と喋るのは、女性と喋るよりも、豊にはハードルが高かったからだ。
 正確には、男性は照れたりしないので普通に喋れるが、楽しい場で話すには、テンションがあがらないので困るというわけ。
 さて、とりあえず女の子という事で、やや期待しつつ、少し照れくさい豊であったが、その声にどこか引っかかるものがあった。
 要するに、聞いた事があるかもしれないと思ったわけだ。
 すぐに、その声の主が部屋に入ってきた。
 その姿を見て、豊はビックリした。
「あれ?こんにちは。豊さんじゃないですか。」
 豊は挨拶を返す事も忘れるくらいビックリした。
 入ってきた女の子は、三杯の妹、のぞみであった。
 豊がこれだけビックリする中、音子はずっと料理を見つめていた。
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